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数ある詩誌の中で、TOLTAの独自性は、群を抜いていると思う。 「TOLTA 2」は、昨年の秋、非常に個性的な詩集「時計一族」(思潮社)を出版した河野聡子氏が責任編集と装丁を負っている、若手の注目詩人たち(最近中原中也賞をとられた最果タヒさんの作品も載っている)による詩誌「TOLTA」の二号である。 実に、実に、個性的で面白く、しかも、その「個性」や「オリジナリティ」が、単に人目を惹くための空虚な身振りではなく、言語の持つ機能に正面から切り込みを入れ、これまでの「詩誌」の常識を覆そうとする試みとなっている点で、この詩誌の登場は、日本の詩の世界でも画期的な出来事と言えるのではないか。 TOLTAの特徴を、紹介してみたい。 ● 「トルタニツリー」の象徴するもの TOLTAを開くとまず驚くのは、「トルタニツリー」が立ち上がることである。 「トルタニツリー」は、クリスマスの樅ノ木のようなものを、厚紙でつくったものである。 「平面」であるはずの、書物のページが、立ち上がって「立体」を形作る。 言って見れば、「飛び出す絵本」の仕組みがここでは採用されており、「詩誌」という、「飛び出す絵本」との関連性が、読者の中に全く予想されていない場で、突然飛び出すものがある、すると、読者は驚く。 その時点で、TOLTAという書物は、非生物であるにも関わらず、ちょうど柔道の掬い投げのごとく、TOLTAを開く読者の手の動きを逆利用して、「読者を驚かす」という行為に及ぶ。 読者が驚く瞬間、それは、トルタニツリーをそこに仕掛けたTOLTAの作成者と、不特定の読者との間に、行為する者と、その行為を受ける者という、一つの「関係」が生まれる瞬間である。 トルタツリーは、まず「立体」であること、そして、TOLTAという書物、更に、TOLTA作成者と、読者との間に、極めて直接的な関係を結ぼうとする点において、書物としてのTOLTAの斬新な性格を象徴するものとなっている。 ● TOLTAの立体性について TOLTAの表紙はとても可愛く、しゃれている。 中心に、鳥を思わせる不可思議な生き物のデッサンがあり、その両脇に、▲●★■の四種類の図形がそれぞれ一つずつ、計四つ書かれた行が、5行ずつ縦にならんでいる。 それぞれの図形には、解説かと思われる単語が添えてある。 1〜3行目を引用してみると、 ▲(山)●(月)★(星)■(窓) ▲(トライアングル)●(小太鼓)■(木琴)★(シンバル) ★(夜)●(日の出)■(真昼)▲(夕立) ここにも、読者への「働きかけ」がある。 一行目を読んで、「なるほど、ふんふん」と思いつつ、三行目に進んだ読者は、■(真昼)で、立ち止まるのではないだろうか? なぜ、■が真昼なのか? ★が夜なのはわかる。●が日の出なのもわかる。でもなぜ、■が真昼なのか? この時、笑っているTOLTA製作者の顔が見えるようである。 この遊戯は、「そこに書かれたものから、そこに書かれていないものへと指示を差し向ける」という、言わば詩の本質に関わる遊戯であろう。 それは一行目で、まるで子供の遊びのように始まる。 三角を描きながら子供が言う、これ、お山なの。丸を描いて、これ、お月様。 しかし、■(真昼)に至った時点で、読者は詩の闇の中に、足を踏み込まされるのである。 ■と、真昼とを一体何が結ぶのか? ■と真昼との間に横たわる不可思議な空間、それこそが「詩」ではないだろうか? 私には、三行目の■(真昼)は、詩的言語の誕生の場、と言っても過言ではない深さを持っているように思える。 表紙で展開されるこの何気ない記号の遊戯は、読者の想像力を刺激してまず「平面」から「立体」を起こさせようとする(平面に描かれた▲は、読者の中で立体性を獲得して「山」となるのである)。 この、「平面」から「立体」へという方向性は、トルタニツリーの象徴するものであったことを思い出そう。 そしてまた、記号と、その横に書かれた単語との関連性の謎に読者を引き込もうとする点において、つまり、書物の仕掛けに読者が引きずりこまれるような形で、書物と読者との間に、ひいては、書物の作者と読者との間に、「行為者」と「被行為者」との関係が生まれさせる点においても、表紙で展開される記号と単語の行進は、トルタニツリーと共通する性格を持っている。 ●アンテルテクスチュアリテ、異なる時間を行き来するTOLTA 可愛らしい表紙に別れを告げて、内容についてもご紹介したい。 「立体性」は、TOLTA独自の、他に類を見ない特徴だと思うが、TOLTAはまた、異なる時間を行き来することによっても、立体性を獲得しようとする。 アンテルテクスチュアリテ(間テクスト性)は、だから、TOLTAにおいては、決して単なる頭脳遊戯ではない。 河野聡子氏の「マハーバーラタ・ノート」は、一見、紀元前4世紀〜紀元後4世紀にかけて書かれたインドの古典叙事詩の紹介・解説文のような体裁をとっている。 しかし、次のような一文に出会う時、筆者の河野氏はマハーバーラタという書物の後ろに黒い服を着て隠れているのではなく、マハーバーラタを写すスクリーンの中に登場してしまっている、つまり、「マハーバーラタ・ノート」は、「マハーバーラタ」を素材とした、河野氏の作品になろうとしていることに、読者は気づくのである。 「彼女のセリフはこの上なく切実な状況で発せられているのにちがいないが、遠くへだたった時空にいる私たちには奇妙であり、面白くすら響いてくるのを否定できない」 河野作品の他、南谷奉良氏の「エデンの園の雪だるま」と「Big Bang Babel」とが、誰でも知っている聖書の有名な物語を下敷きにしながら、それを奇想天外に展開させる。 Big Bang Babelでは特に、聖書以外にもフカの作品をも自在に変形させつつ、多彩なレフェランスの間を縦横無尽に行き来しながら、錯綜した迷路が言語を素材とする緻密な建築物を形作ってゆく。 また、山田亮太氏の「背の高いお父さん」は、繰り返しが印象的な作品だが、これは一つの作品内での、「引用」によるヴァリエーションの試み、と言ってもいいかもしれない。 「繰り返し」とは、同じテキスト内で既に書かれた行、もしくは語句の、引用なのだから。 つまりはTOLTAでは、時間をも、トルタニツリーを思わせる立錐を形作る。 過去の作品が書かれた時間、 その作品を変形させる作品が書かれた時間、 この二つの時間を底辺として、 今、読者が読んでいる時間 これが頂点をなすような立錐である。 ●TOLTA、空間を旅する TOLTAを読み進み始めてまず驚くことのひとつに、その構成がある。 通常の詩誌ならばおそらく、最初に詩作品をまとめ、その次に散文作品、最後に論考、という順序でまとめるであろう。 しかし、TOLTAではそれどころではない、河野氏の「マハーバーラタ・ノート」全5章が、他の作者の作品の間に、ちょうど「ライト・モチーフ」のように、散りばめられているのである。 他の作品の世界に埋没して、マハーバーラタのことはすっかり忘れているところで、それはまたやってくる。 つまり、TOLTAを読み進めながら読者は、TOLTAを構成する縦糸とも言える「マハーバーラタ・ノート」と、横糸を織り成す他作品との間を行き来することになるのである。 そしてこの斬新な構成は、TOLTAに一つの音楽的リズムを与え、TOLTAという詩誌を、「雑誌」ではなく「詩書」として提示するに至るのである。 ●TOLTAは円も描く これまではトルタツリーに象徴される「立錐形」を強調してきたが、TOLTAはまた、円も描く。 TOLTAの内部には、実に不可思議な自己言及的言語が見られる。 たとえば、6ページのマニフェスト。 「B版企画の紙の長い辺に平行に、中心で折ったとき正方形になるくらいの、適当な幅をとって紙をカットする。 二つに折る。あらわれる形が「だいたい正方形」である。 TOLTAこの平面の上で、切り張り・折り込み・貼りあわせの三手法をもって製造される」 これは、「物」としてのTOLTAの製造方法についての解説であるが、初めてこの文章を読んだ時、面食らわない読者がいるであろうか? そしてまた、55ページの言表。 「トルタはだいたい正方形でできています このページは55ページです」 と左上に書かれており、右下には、■を並べて「55」という数字が描かれている。よく見ると、並んだ■の中に、★、●、▲が一個ずつ紛れ込んでいたりもする。 「トルタはだいたい正方形でできています このページは55ページです」という文章が無気味に感じられるのは、話者が誰なのか、わからないからだろう。 このように、話者が明示されていない時、日本語では、語っているのは「私」であると想像できるが、ではここで「私」は誰なのだろうか? トルタ自身が語っているのか? いやいや、トルタは本だから、語れない、これは編集の河野さん? しかしなぜ、他のページではなんの言及もないのに、55ページだけわざわざ「このページは55ページです」と、ページの説明に関する文章と「55」という記号だけで埋められているのだろうか? 実に不思議なページなのである。 こんな風に、TOLTAは、自分自身のことも語る、つまり、TOLTAの言説は、円を描いて戻って行くことがある。 ●TOLTAによる「商品」の擬態 全部で146ページあるTOLTAの中で、私が一番驚かされたのはまず、47ページである。 ここには、TOLTA 2 (トルタ・ニ)の使用説明が書いてある。 「このたびは「tolta 2」をお求めいただきまして誠にありがとうございます。 本製品の誤使用にあたっては、この「使用説明書」を熟読の上、お間違いの内容お取り扱いください。・・・」 これは笑える。 「詩誌」は、「使用」するものではないのに、まるで「使用」するものであるかのように「説明」が加えられているから、笑える。 そしてまた、裏表紙の折り返し部分にホチキスで留められた厚紙に書かれた「ブログキャンペーン」。レイアウトが工夫して書かれているのだが、とりあえずベタで写すと、 「tolta2発行記念・読んで、書いて、当たる! ブログキャンペーン tolta2に関するブログを書いて、TOLTAに連絡するだけで簡単にエントリー。キャンペーン期間:2007年10月30日〜2008年1月31日 プレゼント内容「TOLTA 2 1/2」(キャンペーン特別版) 抽選で10名様に当たる!」 これは笑える。 「詩誌」は、資本主義社会の中に流通している「商品」ではないのに、まるで「商品」であるかのようにキャンペーンが組まれているから、笑える。 ここにあるのは、「もどき」の精神、「真似」することで、「真似される対象」をそれが今享受している座から引き摺り下ろそうとする、先鋭な批評精神である。 「もどき」は、今日でも「芝居もどき」などという言い方があるように、何かに似ているようにつくることです。あるもの、あることの真似をして、その以って非なるところに、元のものを茶化し、愚弄し、滑稽を求めるものです」 (五十嵐譲介他編著「連句」おうふう書店、29ページ) 「商品」を擬態することで、TOLTAは、消費者の注意を商品へと向け、商品を買わせる資本主義の仕組みを笑いの対象とする。 こんなにも開かれたTOLTA,私を魅了してやまない素晴らしいTOLTAだが、TOLTAがもしかしたらいずれ陥るかもしれない罠が私に全く想像できないわけではない。 もし、TOLTAが本当に、「商品」として、消費者に魅力を放つものになってしまったら? そうしたら、TOLTA2 2/1がプレゼントされるというこのキャンペーンは、「擬態」ではなく、資本主義社会そのものの中に組み込まれた一つの歯車になってしまう。 あぁだからTOLTA、私はあなたに魅力的になってほしいが、でもどうか、いつまでもその、幼児のような純真さをその言語遊戯の中に失わないでいてほしい。 TOLTAの魅力は更に多くの人に知ってほしいし、TOLTAには更に更に魅力的な存在になってほしいのだけれど、だからこそどうか、そのあどけない笑顔をいつまでも失わないでいてほしい。 (4月15日(火)、渋谷・三宿のStar Poets Galleryでの天童大人さんのPoetry Voice Circuitは、TOLTA編集責任者の河野聡子さんの公演です。声に乗る詩集は「時計一族」。あの斬新な言葉が、どんな風に読まれるのか楽しみです!) |
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