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まさか、ここまで感動するとは予想もしていませんでした。 こんなに深いものだとも、想像していませんでした。 途中、何度も涙が出そうになり、最後の作品で、年齢不詳の女性に扮したイッセー尾形が、バンジョーでしょうか、私の初めて見る弦楽器でバッハのガボットを爪弾く姿が闇に消えるときは、溢れる涙をこらえるのが大変でした。 詩とは何か、何なんだろうか、という問いかけが常にあって、最近は、詩とは、そこにない存在を、ある広がりの中に現前させる魔術なのだはないだろうか、と考えるようになっているのですが、もしそうだとしたら、イッセー尾形さんの公演はまさしく、「詩」なのでした。 能舞台を思わせる、10メートル四方くらいの何もない空間にイッセーさんが立って作品を演じ始めるやいなや、そこには、話し相手の友達、恋人、被害者、野次馬、たちが、まるで亡霊のように、透明人間のように、姿のない姿を現し、語り始めるのでした。 だから、ビデオやDVDでイッセーさんの公演を観るのは、全くナンセンスな行為なのです。 なぜなら、ビデオやDVDではイッセーさんしか写しておらず、イッセーさんの一つ一つの眼差し、表情、しぐさが生み出す他の登場人物たちの姿が一切カットされているからです。 舞台の上に立つ生身の肉体は確かにイッセーさんの肉体だけです。 でも、登場人物は、それはそれは大勢いて、舞台の上を、観客席の間を、うごめくのです。 イッセーさんが、舞台の上に現出させるもの、それは、他の登場人物たちだけではありません。 まずは、空間 ――― 真っ白い床の上の舞台空間、それを囲む観客席は、廃校の運動場にもなれば、日曜日の動物園にもなる、田舎の家の土間にもなり、日比谷公園にもなります。 そして、時間 ――― イッセーさんの演じる一人ひとりの登場人物たちが、これまでに生きてきた時間。 切り取られ、演じられるのは、一つの人生を形作る長い長い時間のうち、たった15分程度。 カルチャーセンターとして利用されている廃校の運動場で、フラダンスの発表会の練習をする老婆のお喋り。 妻を亡くしたと思われる男性「田辺さん」と、前妻の娘「みずきちゃん」も一緒に三人で動物園に行って、フラミンゴ、ニホンザル、チンパンジーの檻を眺める若い女性の、みずきちゃんとの会話。 夜遅く突然知人の家を訪ねて親しげに話す60歳くらいの男性の語り。 まだ若くて「60歳くらいだった」頃、幻の魚を取ろうとしたという老人が、おそらくひ孫の「太郎」に語って聞かせる「手柄話」。 それぞれ15分くらいの語りの向こうに透けて聞えるのは、決して、決して幸福とは言えないかもしれない彼らの人生をつくった長い時間の粒が、何の手ごたえもなくさらさらと流れていった、その音。 無意味に流れてしまった、時間の帯が、彼らの背中の向こうに、どこまでも、どこまでも長く、続いています。 物語なくしては誰も、生きていけない、自分の人生がどんなにつまらないものに思えても、いえ、つまらないものに思えれば思えるほど、その人生が、生きられるに足るものだったと信じるために、人は、自分の人生から、物語を紡ぐのです。 それは、洪水の日に溢れる川の水の中を息子を探して泳いでいた時に、流れてきたマンホールの蓋が胸に当たったという、母性愛を象徴するエピソードかもしれないし、また、自分の父親が一度だけ友達の家に行き、帰ってきたときとても楽しそうだった、その時、父親がぽつりと言った、「舌平目は、ヒラメの舌じゃないんだ」といったセリフ、そんな記憶が描き出す、父と子の交流かもしれません。 何もないところに、何かを紡ぎださずには、人は生きていられない、人生を肯定して生き続けていくために、自分の人生の中からか細い糸を繰り出して幻影を紡ぎだす寂しいひとびとの生きた時間と空間とを、イッセー尾形さんは、何もない舞台の上に紡ぎだして行くのでした。 |
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