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help リーダーに追加 RSS 梅若晋矢さんの舞囃子「八島」(4月3日、靖国神社能楽堂)

<<   作成日時 : 2008/05/14 18:13   >>

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夜桜能である、梅若晋矢さんの舞が観れる、という魅力に引きずられて出かけていくことに、後ろめたさがないわけではなかった。

そこに行くことを、是とするのかしないのか、自分の立場を明確に意識した上で決めるべきなのではないか、と思うのだったが、「靖国神社に行く」ということに対しての自分の考えを頭の中でまとめることもできぬまま、中国籍の映画監督による映画「靖国」の上映問題が新聞の紙面を騒がせているタイミングで、私は生まれて初めて、靖国の鳥居をくぐることとなった。

九段下の駅の階段を上って左手に行くと、想像していたより遥かに大きな鳥居がそびえていて、参道の両側に延延と続く桜の樹が満開の桜をつけた枝を重たげに垂らしているその下に、大阪のたこ焼き、広島風お好み焼き、月島のもんじゃ焼き、クレープ、チョコバナナ、ウインナードッグなどなど、縁日に並びうるありとあらゆる屋台が店を広げ、花見客が酒を飲み、散歩している。

桜の名所だということを知らずに訪れたのだった。能舞台の傍に行って始めて桜を目にするのだとばかり思っていたのに、たどり着くまでの道のりがすでに花見になっている。
なんとも、日本的な場所、やはりこれが靖国なのだろうと考える。
そして、靖国で、夜桜を眺めながら能を鑑賞する、という行為を、特に熟慮もせずに実行しようとしている自分にやはり後ろめたさを感じる。

会場入り口で切符を見せる。

「お能、習っているんですか」

切符を受け取りながら、袴姿の若い女性が言う。

「えぇ、習ってるんです」
「そうですか、私もです」

中に入って行くと、正面席の前のほうに、知った顔がいくつもある。

「こんにちは」
「こんにちは、寒いね」
「寒いですねぇ。でも、こんなに晴れて」
「ほんとに晴れましたね」
「雨が多いんですよね」
「そうですよ。去年も一昨年も雨で。日比谷公会堂だったんだから」
「日比谷公会堂じゃあ雰囲気出ませんね」
「全然駄目ですよ」
「満開ですねぇ」
「ほんとに、見事に満開ですね」
「うまく日を設定しましたね」
「最近、早いですからねぇ桜咲くの」

野外能舞台の前にしつらえられた席の上に大きな桜の枝が何本も伸びて、満開の桜の花が、まるで屋根のようだ。
知った顔がまた、向こうから来る。

「こんばんはぁ晴れましたね」
「ほんとに晴れましたね。」
「ちょっと寒いですけどねぇ」
「あ、これ、召し上がる? 途中で買ってきたの」
「あ、私もこれ。柿の種。うふふ」
「ちょっと寒いわぁショール持ってきて良かった」
「そうそう日が暮れると急に」

やがて放送が入って、火入れ式、普段は能とは全く関係のなさそうな、地元の役人や会社経営者たちが、羽織袴に身を包んで、薪に火をともして客席に間を進み、舞台の両側に用意された火桶に火を移す。

時折強い風が吹いて桜の花びらがぱぁっと舞う、本物の桜吹雪である、観客席のあちこちから歓声があがる。

そして笛の音―この世ではないところから、訪れるものがある。

切り戸口からお囃子と地謡が入ってきて、梅若晋矢さんが地謡の前に座る。

「八島」―合戦の場の再現だ。

豪壮な舞を、無意識に期待する自分がいる。

しかしー

舞台の上で今繰り広げられているのは、ただ「豪壮」とは違う舞いなのであった。

「討ち合ひ刺し違ふ」

確かにそれは、戦いの仕草ではある。
扇が刀になり、敵の体を貫く、手前へと繰り寄せられた扇の先から、敵の血の滴るのが見える。
確かにそれは、戦いである、しかし、不思議な静けさー。

そこで私は思い出す、来る途中、メトロの中で読んできた、世阿弥作と言われる謡曲「八島」の詞(ことば)を。それはいままさに、地謡が歌っている詞だ。

   その舟戦いまははや、その舟戦いまははや、閻浮(えんぶ)に帰る生死(いきしに)の、海山一同に震動して、舟よりは鬨(とき)の声 陸(くが)には波の楯 月に白むは 剣の光 潮(うしほ)に映るは 甲(かぶと)の星の影 水や空、空行(ゆく)も又雲の波の、討ち合ひ刺し違ふる、船軍の駆け引き、浮沈むとせし程に、春の夜の波より明(あけ)て、敵(かたき)と見えしは群れゐる鷗、鬨の声と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐と成(なり)にける

世阿弥が完成させたと言われる能だが、今演じられている能のうち、世阿弥作とされているものは意外に少ない。
二年前から、一月に1〜2回は能舞台に足を運んでいても、「世阿弥周辺」の作とされる作品が比較的多い。
その中で「八島」は、世阿弥の手によることがほぼ確実とされる作品である。
「謡曲百番」からコピーした詞を古語の知識がないまま注釈を頼りに眺めるだけでも、「天才」と呼ばれる人の手によらなければ決して生まれ得ない言葉の持つ力に圧倒される。
たとえば、冒頭部分―

   面白や月海上(かいしゃう)に浮かむでは、波濤野火(やくわ)に似たり

月の光が波頭に映るさまを、野を焼く火にたとえる想像力。
今目の前にある風景を、全く別の風景に変えてしまう言葉の魔術。

   釣の暇(いとま)も波の上(うへ)、釣の暇も波の上、霞わたりて沖ゆくや、海士(あま)の小舟(をぶね)のほのぼのと、見えて残る夕暮れ、浦風までも

掛詞はここでは、単なる「規則」ではなく、一つの「音」から新たな「意味」を手繰り寄せる詩的装置として働いている。
おそらく本来、掛詞というものはそのようなものであったのだろう、つまり、音の類似や共通性が、全く異なる意味を持つ単語を呼びよせ、硬直した言語連鎖を切断し、意味による連想からは予想もできなかった新しい詩的空間を開く装置であったのだろう、しかしいつの間にかそれは、当初持っていた呪術的な力を失い、単なる規則として形骸化していったのであろう。

私の思いは、舞台の上の梅若晋矢さんの舞と、世阿弥のテキストとの間を行き来する。

   月に白むは 剣の光 潮(うしほ)に映るは 甲(かぶと)の星の影 水や空、空行(ゆく)も又雲の波の、討ち合ひ刺し違ふる、船軍の駆け引き、浮沈むとせし程に、春の夜の波より明(あけ)て、敵(かたき)と見えしは群れゐ鷗、鬨の声と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐と成(なり)にける

「八島」の舞は決して、能の多くのテキストの中でそうであるように、亡霊が回顧する合戦の再現ではないのだった。
それは亡霊が見る合戦の幻なのであった。

   その舟戦いまははや、その舟戦いまははや、

陸に波が楯を並べ、幻の剣が月の光を浴びて白く輝き、兜に打った釘が、星のように光る、それはすべて、亡霊の目に映る幻なのであった。

幻の、幻ー。
幻の、二重構造。

舞囃子の間にも時折強い風が吹き、桜が舞って、客席のあちこちから歓声があがる。

地球という惑星の上のありとあらゆる場所で、戦い、滅ぼされていった人々の亡霊が、わやわやと寄せてくる。

朝の光の中に消えていこうとする亡霊の目に映る幻の合戦、それが、梅若晋也さんの舞う「八島」だった。
幻の幻が、存在しないスクリーンの上に描き出され、朝の光を返しつつ消えていく。
敵と思われたものは鷗の群れであり、鬨の声と聞えたものは、松風の音でしかない。

大鼓と小鼓の最後の音が能舞台に響いて梅若晋也さんが地謡の前に戻ると、能舞台には無だけが、ただ無だけが、あるのだった。

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