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それがエロスの世界であると、気付かぬ人には気付かれぬままかもしれない、そんな抑制された、しかし、だからこそ凝縮されたエロスの世界を、ひそやかでありながら不思議と通る声に乗せて、薦田愛さんはギャラリーの白い壁に反響させる。 成瀬巳喜男、もしくは小津安二郎のフィルムの一場面、例えば男と女がある程度の距離に隔てられたまま目と目を見交わすだけであったり、中年の男二人が目配せし合うだけであったりするワンカットが性への濃密なコノテーションを含んで単純な性描写を遥かに越える「匂い」を発散させるように、薦田愛さんの作品も声も、抑制されればされるほど生々しい実感を伴って聴く者に迫ってくる。 薦田さんご自身のトークによれば架空の人物だという「姉」が執拗に登場し、その肉体、特に髪の毛が粘り着くような視線の対象となる。閉ざされた部屋の日だまりに身を置く姉の姿が詩人の声に耳傾ける私たちの脳裏に焼き付いた後でまた別の作品が声に乗せられ、そこで今度は「私」が閉ざされた部屋の日だまりの中にいると知る時、私たちは眩暈の中に陥れられる、先程声に乗せられた作品の中で「私」から絡み付くような視線を浴びていた「姉」、あれはでは、「私」自身だったのであろうか? 閉ざされた部屋の日だまりの中で「私」は「私」と「姉」とに分裂し、「私」は「私」の分身としての「姉」をなめ回すような視線を纏わせるのだろうか? 「私」が「私」を眺める、この「回帰性」こそが、ギャラリー東京ユマニテの白い空間に息苦しい程にたちこめたエロスの源なのだろうか? 詩集「ティリ」に収められた不思議な形状をした詩作品はその意味で、薦田愛さんの世界を象徴する作品かもしれない。初期の詩篇ではénoncéとして現れたものがその作品では直接言及はされずに「形状」として現れる。一度も行変えされることなくその詩篇は幅約一センチ、長さは四メートルにもなるかと思われる細い長い帯の裏表に記され、詩を声に乗せる詩人の指が一つの面の端にたどり着くと、その指はもうひとつの端を取って表裏を返し、声は途切れることなくそこに記された文字を読み続ける。 メビウスの輪、そう、その詩篇は始めも終わりもないメビウスの輪に記されているのである、始めが終わりとなり終わりがまた始めとなる、そこを辿る者にとって終着のない捻れた輪。 その輪に書かれた詩篇が休みなく「ふらここ」 − ぶらんこ − の往復を描写し、また「模倣」する時−「詩」というジャンルの指標となる「繰り返し」というレトリックは、ここでは「ふらここ」の動きのミメーシスでなくて何であろうか − 私達は何十にも渦を描くメビウスの輪の中に閉じ込められ、目の前に現れた新しい道を辿ろうとしてかつて既に何度も歩いた道をしか辿ることができない。 「私」がいつしか「姉」となり、「姉」が「私」へと繋がってゆく捻れた輪、互いの尾を噛み合う二匹の雌のウロボロスの、決して成就することのない性愛の描く円環の内側に閉じ込められて、気の遠くなる程のエクスタシーを感じない聴衆がいたら、その人は残念ながら「詩」とは縁のない星の下に生まれている。 (天童大人プロデュースLa Voix des poètes(詩人の聲)第213回 於ギャルリー東京ユマニテ2008年5月29日) |
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